正しさを追求して自爆する

仕事や日常生活においても、約束を守らなかったり、誤魔化したり、嘘をついたりする人はたくさんいる。でも、それを正しても、なんの得にもならないという話。
SHINTARO KAN 2021.12.02
誰でも

1,「正しさ」という正義で損をするのは自分

昔から、「正しいことをやるべきだ」という厳しさの中で育ったことから、赤信号を渡らないとか、列にきちんと並ぶとか、律儀に守ることを続けてきた。ただ、それでも、先に横断する人や列に割り込む人がいるのも事実。結果、自分の順番や時間が後回しになり、損をすると同時に、ズルをした相手にイライラが募る、ということで自分のこころを痛めてきた。

どうしてこの人達はルールが守れないんだろう?

相手の立場を考えることはないのだろうか?

自分のことだけしか見えてないのだろうか?

結論としては、すべて彼らの言動は、彼らの中で「正しい」のだ。

誰もが、誰よりも早くスタートしたい…

誰もが、誰よりも早くスタートしたい…

ラーメンを早く食べたいから、割り込んででも食べる。遅刻したら誰かのせいで自分じゃないといい、体裁を保つ。そうやってその場その場でとりつくろって、生きてきた人にとって、他人がどう言おうとも、その場がやり過ごせればいい、という価値観にそって生きている。だから、行為の正しさや影響など考える余地はない。

一方的にこうした人にイライラしても、イライラするほうが損をするだけなのだ。

「正しさ」を追求することで、人間関係が悪化し、小言を言う自分が悪い評価となり、利得もなく、ただ一方的に損をする。だから、「正しさの追求」は、この世に生きているか切り、無駄でしかない。

2,起きていることを受け入れ、最善だけを目指す

以前、新人で著しい成果に対する報奨金が支払われることになった際、給与明細でその特別賞与が源泉徴収されていることで、そんなご褒美がある事に気づいた。もちろん、まだ支給されていない。人事に確認すると、直属の部長に目録を渡したという。

上司に問い詰めると「あー、忘れてた。渡すのを」と少し分が悪いような表情だった。もしかしたら、こっそりいただこうと思ったのかもしれない。当時はそれで上司への信頼をゆらぎ、怒りの感情がわき、その後の人間関係は悪化し、最後は居場所がなくなり別部署への配置転換となった。

今振り返って見るに、たしかに「正しさ」では、上司への追求は正当化されるのかもしれない。ただ、そこで相手を攻め立てたところで、何が得られるのか。得るものはなにもない。むしろ、結果として自分が居場所がなくなるという損をしてしまうことに至る。

「あー、忘れてたんですか!じゃあ、これで飲みにでもいきましょうかね」とちょっと気が利いた冗談で済ませれば、お互いの感情もよりよき関係だったかもしれない。

「正しさが損をする」ということが、身にしみて理解するような今だったら、あの時の対応は、「相対的な立ち位置」や「言った後の影響」を考慮した立ち振舞をしていたに違いない。

思えば、新入社員の3年間。人間関係で苦しむことばかりだった。それはその後も暫く続くのだが、めくるめく様々な経験を経て、今となっては当時の立ち振舞は失敗だったと思っている。

「相手を正す」のではなく「自分をしなやかに変える」

その柔軟さが、どんな相手においても対応でき、結果を出すために重要な姿勢なのだ。だから顧客だろうと仲間だろうと社内だろうと、「相手にイライラ」してはいけない。

怒りとは「期待と現実のギャップ」から生まれるもので、変えられない相手に「期待」している時点で、自分自身が相手に対しておこがましいことなのだ。

3,グッとではなく「ふっ」と受け入れる

相手に怒りを感じたら、グッと堪えて受け入れなさい。其のとおりにしたら、自分自身を痛めつけることになる。そもそも「我慢」自体が自分自身を傷つけるのだから、何もいいことはない。どんな不遇や理不尽がおきようとも、それを軽やかに受け入れて、爽やかに対処し、さっそうと次に向かう。そうした柔軟性こそが、仕事の幅と深さをつくる。

ねばならない!が一番自分を苦しめる

ねばならない!が一番自分を苦しめる

しかめっ面や眉間にシワを寄せる前に、自分自身が幽体離脱して、その様子を客観的な立場でまるで、天国から自分の人生を見るように、想像してみて欲しい。その場限りのきつい言動やふてぶてしい態度、怒りをぶつけることがいか見にくいことか。

結局は「自分が損をしない」という利得のために「怒り」は何らえるものがない。つまり日常から「怒り」の感情がなくなるような過ごし方、心構え、生き方こそが正しい。

あの人は、急ぎたいんだな。

あの人にも、欲があったんだな。

そうやって、かろやかに過ごすことができれば、どんなピンチが訪れても、怖気づくことなく対処できる。いま、まさにそれを身にしみて感じている。

「怒る」と書いて「奴」という「心」

相手をそういうふうに想う自分自身こそが、おこがましい。反省。

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